思うまま書く60周年。

初めて平和祈念式典に行った。

6時50分、ドームに着いた。
園内のあちこちでボーイスカウトの子たちが、
“献花をお願いします!”と呼びかけながら
花を一輪ずつ配っていた。
式典の受付場所では、
“冷たい水とおしぼりをどうぞ!”
と若い子たちが呼びかけていた。
もらったおしぼりは、かたく絞って凍らせてあった。
たくさんの人たちが早朝から動いているんだなあ。

8時15分、黙とうの時、
市民代表がつく鐘の音と一緒に、
“式典をやめろーーー!!!”という
公園の外からの叫び声が何度も聞こえた。
テレビでは聞こえないから知らなかったけど、
いつもこうなのだろうか?
驚いたしとてもこわかった。


公園内は、歌う人・語る人・手を合わせる人・
呼びかける人・写真を撮る人…とてもにぎやか。
そんな様子を見たり、慰霊碑をまわったりした。
10時からは空からの写真撮影に参加した。
爆心地点上空でヘリコプターから写真を撮るから、
スタッフの合図で一斉に空を見上げてほしい、
その写真はホームページで公開します、という企画。

原爆の子の像の近くでは、石井竜也が鶴を折っていた。
冬に平和公園であるイベントにて設置される
“平和の母親”というオブジェの髪の毛の部分に、
みんなで折った鶴を使う、という企画だそうだ。
10万羽が目標だとのこと。

ドームの近くは、ギターで歌うグループや、
英語で平和の言葉を唱和するグループなどで、
わりとほのぼのした雰囲気だったのだけど、
急にその中に、絶叫みたいなのがまじった。
びっくりして声の方を見たら、
赤く染まった服で裸足で足を引きずって、
被爆直後の人々の様子をひとりでパフォーマンス
(という言い方は適当でないかも)
している男の人だった。
語弊はあるけど、周りの雰囲気と比べるとちょっと奇異だった。
でも、あの日この辺りには
こんな人たちがたくさんいたのだと思ったら、
その人の叫び声に胸をしめつけられた。

ドームの前で記念撮影する人もたくさん。
ひとりの「大人の」女性が両手を耳のように頭の上にかかげて、
小首をかしげてカメラに向かってにっこりしてるのを見た。
しーん………。心の中で暴言。
悪気はないのだろうけど。

暑いし歩き疲れたのでコーヒー飲みに行った。
涼しいところで熱いコーヒー飲んで、平和だなと思った。
今までは、こんな気持ちになったとき、
つらかった人たちへの罪悪感のような気分もわいていた。
でもこれからはそれだけじゃなくて、
式典のあとで涼めるしあわせを存分にかみしめて、
この今のしあわせを絶対に手放さないぞ、
と思うことの方が大事なのかなと考えた。

夕方、家に帰り、ヤフーのニュースで、
甲子園の広島代表校が、
球場にいる全員で8時15分に黙とうしたいと申し出たが、
高野連が阻止した、ということを知った。
終戦の日に行っている黙とうで総括したい」
ということらしい。
まぁ、それなら疑問に思いながらもわからなくもない。
でも、高野連の誰かが、
「それは広島だけの問題なんだから、
 全国の出場校を巻き込むのはよくない」
とかなんとか言ったらしい。
そんな言い方はないだろー。
…と思いながら、
広島の人間がヒロシマを語ったりするのは、
感傷だととらえる人もいるのだろうか?と考えた。
広島原爆投下の日を、広島以外の人たちは、
4割しか正確に答えられないと聞いた。
なんかショックだったけど、
それってある意味、私が東京大空襲のことを
よく知らないのと同じことではないだろうか。
「世界で初めて原爆が投下されたひにちも知らないの?」
というような上から見下す気持ちでいないか?
私がヒロシマのことを知ってほしいと思うのはなんでだろう。
感傷?ポーズ?偽善?などなど、色々考えてみた。
どれも違うけど、心のどこかにはそんな気持ちが
ないとは言い切れないのかもしれない。
それに、そんなふうに(偽善とか)思われたくないという、
ヘンなプライドが口に出すことをためらわせるのも否めない。
けどやっぱり、知らない人には知ってほしいと思うから、
広島に住んで感じることや、私が知っていることは、
機会があれば口に出して行こうと思った。

私の中で、原爆への思いが変わったのは、
3年くらい前に見た“原爆の絵”の中の一枚だった。
「助けてあげられなくてごめんね」というタイトル。
当時17歳の男性が投下直後に小学校を通りかかると、
子どもたちが校舎の下敷きになっていて、
助けようとしたけど助けられなかったそうだ。
絵に描いてあるのはその時のことなんだけど。
涙をいっぱいためて校舎の下敷きになってる男の子の顔。
その時男の子は、
「なんでもしますから助けてください」と言ったそうだ。
とてもかわいそうで涙が止まらなかった。
原爆が落とされて、
「黒こげの人がたくさん道で死んでいた」とか、
「水を求める人が川にあふれかえっていた」とか、
知識としてはあったし、ひどいしこわいと思っていたけど、
それは全体的なイメージでしかなかったのだと愕然とした。
戦時中とは言え、普通のいつもの朝だったのに、
急にすごい爆弾が落ちて、
びっくりしただろうしこわかっただろうし、
そこらじゅうが火事で熱かっただろうし、
建物の下敷きになった人は痛かっただろうし、
家や家族や友達のことが心配だっただろうし、
いきなり何が起きたかわからなかったのだろうなあ。
この絵を見るまでは、わかっていなかった気がする。

被爆者の平均年齢は73歳を越えたそうで、
“語り継ごう”“風化させてはいけない”
という意識が高くなる中、
きっと今まで色んな理由で黙っていた被爆者の方も、
体験を語らなければいけなくなってくるのだろう。
人に話すということは、あの日が甦るってことだし、
とてもつらいだろうなあと考える。

例年以上にいろいろ考えた60年目の今日だった。
たくさんの人が関心を持ってくれたらいいなと私も思う。

***今日の一曲
     ひろしま平和の歌