切実だったりどうでもよくなったり

日によって、程度は違うけど、
14時から16時くらいにかけての、
精神状態は、いつも最悪に近い。
…ただし、会社に居る時だけ。
そこまで会社がイヤなわけでもないのに…。
すべての、不安や不満や悩みが、
少しのモレもなく、まとめておそいかかる感じ。

最近、特にひどいような気がする。

でも、仕事が終わって、私服に着替えて、
会社を出て、郵便物を投函して…と、
自分の時間になるにしたがって、
そんな切実な思いは、どんどんうすまってゆくのです。
とても、ゴキゲンによりみちしたりします。

で、家に着くとコタツやパソコンや電気をつけて、
お茶を飲んで一息つきます。
会社で落ち込んでいた理由さえも、
思い出せないほどに回復するのです。

でも、今日は違う。
何がそんなに切実だったのか、
なんとなく憶えている。
“他人事のように”ではあるけど。

憶えていないより、憶えているほうが、
正しい精神状態のような気がするので、
こんな自分から、もうすぐ脱け出せるのだろうか。

“昼間の記憶の中の切実な自分”(おおげさ?)を
恐れるわけでもないし、逃げ出す気もない。
逆に、正体を知りたい。

ただ、その“切実”の渦中にいるときは、
ほんとうにつらい。
私なんか居ないほうがいいんだと、本気で思う。
そして、みんな多少なりとも、イヤなことを抱えながら、
毎日を過ごしているというのに、
何を私だけが、こんなへこたれた気持ちでいるのだろうと、
情けない気持ちでいっぱいになる。

カウンセリングでも受けたほうがいいのだろうか。

…2年ほど前に、心療内科へ行ったことがある。
同じ症状ではなく、職場環境になじめず、
ダともケンカばかりで、誰かに話を聞いてほしかったような記憶がある。
友達や身近な人に、グチでもこぼせばいいものを
“ケンカばかりしている”なんて言えば、
みんなが心配すると思うと、それさえもできなかった。
(今は決してそんなことはない(笑))
もう自分の中だけでは、どうにもならなくなったのだった。

そんなくらいのことで、心療内科に行ってもいいのだろうかと、
とても迷ったけれど、数年前に東京の友達が、
“カウンセリングというのは、カゼをひいたときのように、
 もっと気軽に受けてみればいい”
と言っていたことを思い出して、思いきって
駅の近くの心療内科に行ってみたのだった。

がまんしていたものが爆発して、
大泣きしながら、先生に話をした。

そしたら、その先生は、
至って客観的に、顔色ひとつ変えず、
私の話を最後まで聞いた。

で、紙を1枚出してきて、
“どんなときにそういう気持ちになるか、
 日常生活の中で、この紙に書き出して、
 次の時に持ってきてください。
 それを見ながら、次のことを考えます”
と、淡々といった。

心療内科は、みんなそういうものなのかは
わからないのだけど、
(そうだったらすみません)
言いたくても言えなかったことを
(言いたくなかったことでもある)
やっとの思いで、吐露したのに、
表情ひとつ変わらない先生に、
失望してしまったのだった。
大泣きして、体温を奪われたからだに
冷水を浴びせられたような、
ものすごく孤独な気分になった。

要は、私は誰かに優しく話を聞いてほしかったのだ。
それを心療内科に求めたのが、
正しかったのか、間違っていたのかは別にして。
人から見れば、自分の中で処理すればいいような、
ばかばかしい悩みだったのかもしれない。

もうその心療内科には、行かなかった。
客観的に診断する、すばらしい先生だったのかもしれないのに。
(イヤミではなくて)
ほかのところに行ってみる気もなかった。
やがて、職場も変わり、ケンカもあまりしなくなり、
元気になったから、まぁいいか。ってかんじになった。

話は戻るけど、とにかく午後の精神状態が悪い。

仕事もふつうにするし、コーヒーも飲むし、
しゃべるし笑うし、誰もいなくなれば、
メールを送ったり、スクワットまでするくらいなので、
周りの人から見れば、至って普通…というより、
元気過ぎるくらいだと思うのだけど…。

…日記に書いたら、かなりすっきりしました。
ふぅ。

やっぱり、甘えているのだろうか。
なんかもー、よぅわからんわ。マジで。
“誰か”のせいではないことだけは、確か。

とりとめがなくてすみません。
今はとっても元気です。

***今日の気温    5℃  18:05